今まで、過保護的な人間関係から育つ2つのタイプ(甘やかされ型・わがまま型)と過干渉から育つ2つのタイプ(無気力型・反抗型)について考えました。
過保護と過干渉の両者に共通するのは『かまいすぎ』です。しかし、これはあくまでかまいすぎであって、両親が子どもをかまわない、ほったらかしでいいかというと、それはそれで問題があります。
人間をほったらかしにして勝手にさせておいて自立できるかというと、そうはなりません。
教育関係の大学に進むと、人間がほったらかしにされて育てられるとどうなるかという例で、オオカミに育てられた子」とい話を学びます。
未開の地域で、そういうケースがいくつかありますが、そういった子どもは、人間の言葉が理解できない、話せない、立って歩けないといった悲惨なことになります。
動物と人間のもっとも大きな違いは、「人間は知能が発達している」ということですが、その知能は言葉の習得にしたがって発達します。言葉が理解できなければ知能も発達しません。
オオカミに育てられた子供が、まだ幼いうちに助け出されて人間社会に連れ戻されればやり直しがききます。しかし、8歳前後を過ぎてからだと、言葉さえ満足に覚えらず、人間として生きていくことができないそうです。
人間の基本的能力である直立歩行も、コミュニケーション手段としての言葉も、決して本能的(生まれつき)なものではありません。
これらは潜在的能力と本人の努力に加えて、両親を中心とした周囲の人の献身的教育によって獲得されていくのです。
つまりヒトに生まれても、人間社会の中で、人の手によって人間教育と学習がされなければ、人になることはできないのです。このことからも、人間形成において、誕生後の環境や教育がいかに大切かということが考えられるでしょう。また、オオカミに育てられた子として有名なカマラの例のように、9年かかっても人間の能力が育たなかった事実から、 人が、その必要なときにそれにふさわしい教育を受けなかったり、間違った教育を受けたりすると、その後の発達が妨げられるということがわかります。そして、そうなってしまってからそれを取り戻そうとしても、うまくいかない場合が多いと言えます。
今回は『かまいすぎ』の反対である『放任』から育つ2つのタイプのうち、無知型について考えます。
無知型が生まれるパターン
家庭で
E君が生まれてすぐ、お父さんは海外に長期の単身赴任を命じられました。お母さんも新築した家のローンのために、E君がまだ1歳になる前に仕事に復帰しなくてはなりませんでした。
幼児だったE君は近所に住む祖母に預けられ、お母さんが帰りに引き取りに来るという毎日でした。
おばあちゃんは高齢で、あまり身体が動かないことに加えて、少し耳が遠いため、E君の相手が十分にできませんでした。それで、食事以外はE君を抱いてテレビの前に座り、ずっとテレビを見ているという毎日でした。
(続く)
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